LOGIN診療所を出ると、学校へ向かう道すがら、次々と声をかけられた。
「梓ちゃん、体の調子はどうじゃった?」八百屋の前に立つおばあさんが手を振る。
「先生は優しい方じゃろう? 何か困ったことがあったらいつでも言いんさいよ」
雑貨店の店主が顔を出す。
「お母さんの弓子さんにそっくりじゃねえ。きっと元気に育ってくれるとよ」
通りがかりの女性が籠を抱えたまま立ち止まる。
一人、また一人と声をかけてくる村人たち。みんな笑顔で、親切で、梓のことを本当に気にかけてくれている。その温かさは確かで、嘘ではなかった。
だからこそ、胸の奥に小さなざわめきが残る。昨日の朝のことを思い出す。玄関に置かれていた籠。菜っ葉と茄子、それから米袋。葉の裏にはまだ露が残り、泥も乾ききっていなかった。誰かが、自分が目覚めるよりもずっと前に手を動かしてくれていた。その重みは確かで、込められた労力も気持ちも、籠を持ち上げただけで手のひらに伝わってきた。
母の古い日記にあった一文を思い出す。
――笑顔で与えるのが、この村の礼儀。
なぜだろう。この親切は、まるで決められた手順のように感じられる。頼む前に親切がやって来る。そんなふうにして、この家にいる自分の居場所までも、外から静かに決められてしまうような気がした。
◆
学校に着くと、昨日の友人たちが手を振っていた。
「あずさちゃん、おはよう! 検診はどうやったと?」
あゆみが小走りに駆け寄り、両手で梓の手をぎゅっと握ってくる。その体温がじかに伝わって、梓の頬がほんのり暖まった。あゆみの手は小さくて、けれど思いのほか力強くて、握り返さずにはいられなかった。
「先生、やさしかったじゃろ? なんか困っとったら、すぐ言うてな」
美穂が委員長らしい調子で尋ねながら、何の躊躇もなく鞄からハンカチを取り出して、梓の袖についた埃をそっと払ってくれる。その手つきは慣れたもので、きっと普段から誰かの世話を焼いているのだろう。
梓は「ありがとう」と小さく呟いた。「吉川先生は、ええ人とよ。僕も風邪んとき、すごう親切にしてもろたけぇな」
健太は分厚い本を抱えながら言って、ためらいがちに文庫本を差し出した。
「これ……東京の作家の短編集。好きなんや。もしよければ、読んでみんさい」
受け取ってページをめくると、インクの匂いが懐かしく立ち上る。胸の奥が、温まってゆく。
「ありがとう」
梓が小さな声で礼を言うと、健太の耳は見る見る赤くなった。その様子があまりにも純粋で、梓は思わず微笑んでしまう。
あゆみはそんな二人を見て「わたしも何か貸したい!」と言いながら、鞄から小さなメモ帳を取り出した。
「これ、かわいい付箋がいっぱい付いとるんよ。勉強のとき便利とよ!」
表紙に散りばめられた小さな花柄の付箋が教室の光を受けてきらめいて、あゆみの笑顔も弾んだ。
その輪の中に自分もいる。梓はふと気づいて、胸の奥がじんと熱くなった。東京の生活で凍り付いていた心臓が、少しずつ、本当に少しずつ動き出している。そのことがこんなにも嬉しいなんて、思ってもみなかった。
◆
午後の授業は、学校から少し下った川べりの共同農地で行われた。
都会の学校ではまずない、農業体験の授業だ。山の斜面を段々に切り拓いた畑一面に、背の高いトウモロコシが整然と並び、胡瓜の棚が風に静かに揺れている。赤く熟れたトマトが鈴なりになり、草いきれと青い匂いが混じり合っていた。
初等部から高等部まで、全校生徒三十人ほどが一斉に集まる。教師たちが列を整え、農家の藤吉さんが朗らかに声を響かせた。
「おう、今日はわしの畑でうんと働いて、しっかり汗かいて帰りんさい!」
◆
畑の前に教師たちが並んで声を上げる。
最初に声を張ったのは、初等部の松井先生だった。麦わら帽子の下で丸眼鏡が光り、穏やかに手を振る。「ほれ、並んで並んで! 今日はええ天気じゃけぇ、ええ実習になるで」
その優しい調子に、子どもたちも自然と笑顔で列を作る。
隣で、大槻先生が胸を張った。日に焼けた腕を大きく振り上げ、運動場の指導者のような勢いで声を響かせる。「列は崩さんと! 畝は真っ直ぐ歩きんさい!」
その迫力に、ふざけていた中等部の子たちも思わず背筋を伸ばした。
最後に口を開いたのは、高等部の藤森先生だった。白髪まじりの頭を少し傾け、黒縁の眼鏡越しに静かに生徒を見渡す。「……説明は一度しか言わんからな」
低く抑えた声に、笑い声まで吸い込まれるように消えていった。
そしてもう一人、村の農家から指導に来た藤吉さん。「わしは藤吉言うてな。新ジャガ掘りなら任せとけ! ほれ、腰据えて掘ったら、ごろごろ出てくるけぇ! 小さくても甘うて美味しいんじゃ!」
四十代半ば、日に焼けた皮膚は革のように分厚く、腕には血管が浮いている。腰には手ぬぐいを差し込み、古びた麦藁帽子のつばをくいと上げ、歯を見せて笑った。
都会ではついぞ体験することのない、土に近い授業。梓は初めての体験に、胸の高鳴りを抑えることができなかった。
◆
「見て! おっきい!」
初等部の子どもたちはトウモロコシの列へ。背より高い葉をかき分けて、ずっしり実った穂を抱きしめると歓声が上がった。黄色い粒が陽に光り、抱えた子の顔も輝いている。
中等部は胡瓜の棚へ。細い指で蔓をつまみ、ぽきんと折れると青い匂いが漂った。
「冷たうて、しゃきしゃきしとるじゃろ!」
その場でかじり、滴る水分を笑顔でぬぐう声が重なった。
赤く熟れたトマトも籠に盛られ、宝石のように光っている。夏の陽射しに照らされ、生徒たちは汗を流しながらも楽しそうに収穫作業に励んでいく。
◆
梓たち高等部は新ジャガ掘りを任された。
「梓ちゃん、こっち一緒にやろうと!」
あゆみが軍手をはめた手を引き、無邪気に笑いながら泥をはね飛ばす。
「見て見て、競争やで!」
顔まで泥を飛ばして、屈託なく叫ぶ。その笑顔があまりにも眩しくて、梓も思わず笑い声をあげてしまった。
「こっち側は重たいじゃろ? 僕が支えるけぇ」
健太は額に汗をにじませ、図鑑で覚えた知識を口にしながら、不器用にスコップを支えてくれる。
「新ジャガは小さいけど、本で読んだより甘いんじゃ!」
「梓ちゃん、こっちに力をかけてな。……そうそう、上手になっとるとよ」
美穂は頼もしい声で指示を出し、掘り出した小ぶりな芋を泥からきれいに拭って、籠に丁寧に並べていく。その世話焼きが妙に嬉しくて、梓の胸が温かくなった。
気づけば、自分の頬や髪まで泥がついている。あゆみがわざと泥水を跳ねかけ、「ひゃー!」と叫び、周りは大笑い。梓もとうとう声をあげて笑った。
東京にいた頃にはなかった笑い方。胸の奥が熱くて、涙が出そうなくらい楽しい。
少し離れた場所で、清音が静かにその光景を見守っていた。いつもの無表情に見える顔が、ほんのわずかに和らいでいる。風に揺れる髪越しの瞳は、まるで梓の笑い声を胸にしまうように、静かに光っていた。
泥だらけの手で額の汗を拭ったとき、清音がそっと近づいてきた。
「……汚れてる」
白いハンカチを取り出し、梓の頬についた泥を優しくぬぐってくれる。冷たい布越しに感じる指の感触に、梓の心臓がトクンとひとつ鳴った。
「ありがとう……」
赤面するのを自覚して、さらに赤くなっていく自分の頬を感じながら、震える声で礼を言う。清音はただ小さく微笑んだ。梓は視線を逸らせずにいた。彼女の指先が触れるたび、心臓が跳ねて呼吸が浅くなる。笑い声に混じって、胸の奥で別の熱がひそかに燃えていた。
少し離れた場所で、あゆみがその光景を見つめていた。手にしたスコップが、いつの間にか止まっている。
「清音、梓ちゃんばっかり構うじゃないと」
あゆみの声は明るかったが、どこか棘を含んでいた。美穂と健太は気づかない程度の、微かな変化だった。
「みんなで一緒に作業したほうが楽しいとよ」
そう言いながら、あゆみは無理に笑顔を作る。でも、その目だけは笑っていなかった。
◆
三つめの穴を掘ったとき――
梓の指先が、冷たいものに触れた。土の中で、白い球体が覗いている。それは瞬きもせず、赤い筋を走らせながら、じっとこちらを見つめていた。
――それは、人の眼球に見えた。
心臓が一瞬、音を忘れる。
「……清音」
隣で黙々と草をむしっていた清音に、梓は震え声で呼びかけた。
「なに?」
清音は平然と覗き込み、ふっと笑った。
「根っこよ。ときどき人の顔に見えることがあるの。大丈夫、驚くことじゃないわ」
言われて見直すと、そこにはただの小さな新ジャガの塊があった。切り裂かれた根がにゅるりと伸びているだけ。
背後であゆみが「見て! こんな大きいの出たとよ!」と叫び、健太が図鑑を広げて「やっぱり本で読んだより大きいじゃろ」と品種を確かめ、美穂が土を払って籠に並べていく。笑い声が重なり、梓の胸も再び温かく揺れた。
◆
籠いっぱいの野菜を抱えて、子どもたちの笑い声が響く。トマトをかじれば赤い果汁が唇を濡らし、胡瓜は驚くほどみずみずしい。
「冷たうてうまいじゃろ!」
あゆみが声を張り、健太も「やっぱ本で読んだ味よりずっとすごいとよ」と笑い、美穂も「みんなようけ頑張ったけぇな」と肩を叩く。
梓はその輪の中で息を弾ませながら笑った。
――この村で、自分はもう一人ではない。
けれど土の中で一瞬見た白い球体の冷たさだけは、指先にぬめりのように残り続けていた。
吉川は柱から縛めをほどいた俊夫に肩を貸した。 俊夫はよろめきながらも、歩き出す。「せ、先生? なんで? 俺は……?」「安心してください。とりあえず皆で診療所まで戻りましょう」 朦朧としている俊夫に落ち着いた声をかけながら、吉川は歩き出す。「梓さんは、沙織さんたちを」「はい!」 梓は沙織の側に膝をつき、子どもの体温を確かめる。陽一はまだ震えており、小さな背中が母親の胸に寄り添う。「何があったのかは後で伺います。今は、ここを離れることが先です」 梓は囁くように言いながら、沙織に手を差し出した。 沙織は眉を寄せ、嗚咽を抑え込もうとして顔を上げる。恐怖と安堵が混ざった表情で、震える手を梓の指に絡める。「……どうして……どうしてこんなことを……」「今は、とにかく動きましょう。先生の指示に従ってください。私も、手伝います」 沙織を立たせ、梓は陽一を抱き上げた。陽一は身体を小さく丸め、母の胸から離れるのを嫌がった。「おかあさん……」 小さな声が震える。梓がそっと背を支えると、陽一はびくびくと小さな体を預けながら、縛られていた柱の方を見た。「……おとうさん、だいじょうぶ?」 その問いかけに、沙織の顔が歪む。答えを返せずに唇を噛み、震える手を梓の腕に短く触れた。そこに感謝と疲労、そして言葉にできない苦悩が混じった熱を残した。「大丈夫よ、陽一。先生が診てくださるから」 沙織は必死に声を絞り出し、息子の頭を撫でた。 その時――外から、砂利を踏む足音がかすかに聞こえた。風に乗って、松明の匂いが戸の隙間から流れ込む。梓は無意識に立ち止まり、耳を澄ませる。足音は間を置いて近づき、やがて止まる。 吉川の目が一瞬だけ険しくなる。治療の手を止め、梓に短く囁いた。「梓さん、外の様子を見てください。急ぎますが、慎重に」 梓は静かに頷き、障子の隙間に懐中電灯の光を差し出す。外は月光に照らされた小径が細く伸び、一人の男がこちらを覗き込むように近づいてきた。光が当たるその顔は、庄司――村の猟師だった。手には猟銃を抱えている。しわの刻まれた表情は冷たい眼差しを湛えながら、どこか歪んだ微笑を浮かべている。 庄司の声が夜に低く響いた。「ここに入ったのは誰じゃ? 村ん外ん者か?」 そのひとことで、室内の緊張が一段と高まった。男たちの影が戸口に寄り、火の光が差し込
洞窟から戻る道の途中、雑草に紛れているが脇に分岐する小道が見えていた。その先には、古井戸の黒い輪郭がぽっかりと浮かんでいた。月明かりがその縁を銀で縁取るたび、梓は胸の奥を小さく締めつけられるような感覚を覚えた。「この先にある古井戸、少し気になりますね」「……はい、井戸の先にも何かあるみたいです」 清音に言われた言葉が、ふと蘇る。──古井戸には近づくな、と。何かを守るための境界線のように、彼女の中でその言葉が折り重なっていた。「調べてみたくもありますが……」 吉川の声を聞きながら、道の分かれ目を過ぎ、数歩進んだとき――夜の空気が一瞬、ざわついた。井戸の向こうから、切羽詰まった女性の声が鋭く響いた。「助けてっ!」 その叫びが夜気を震わせ、梓の胸が凍る。声は一度で終わらず、嗚咽と短い断末魔のように続いた。懐中電灯の光を握る手に力が入る。清音の言葉が、不意に耳の裏から囁かれた。──古井戸に近づくな、と。梓はその戒めを思い出しながらも、足を止めることはできなかった。 梓は古井戸の方向に目を向けた。吉川も同じく、暗闇の奥を見据えている。「先生、今のは!?」「ええ、聞こえました。あの声には聞き覚えがあります」 二人は迷うことなく、分かれ道に向かって駆け出した。 古井戸を横目に過ぎると、その先の暗い森の中に小さな建物の影が浮かび上がる。黒ずんだ屋根が月光に浮き、社務所の跡を残す廃屋だった。障子の一隙間から、暗がりのなかで揺れる小さな影が見え、かすかな音が漏れている。短く、途切れる嗚咽。子どもの泣き声だった。 梓の足が無意識に速まる。胸の中で、祠の板に刻まれた文字列がまた揺れた。〈この子は、普通に生きて〉――その殴り書きが、眼前の泣き声と重なる。 障子越しに揺れる影がもう一度見え、梓は無意識に駆け寄ろうとする。吉川が静かに後を追い、彼女の肩に軽く触れて速度を抑えた。彼の目は夜の光に冷たく光り、しかし表情には確かな理性があった。「落ち着いてください。様子を伺います」 吉川は低く言い、障子の隙間に懐中電灯を差し入れて中を覗き込む。光が畳に落ちた瞬間、そこに縛り付けられた人体の輪郭が浮かび上がった。男の体は柱に固定され、縄が何重にも巻かれている。筋が浮いた腕が痙攣し、唸り声が口から漏れていた。 吉川が低く囁いた。「梓さん、静かに。まずは状況を確かめな
板を写し終えたときだった。 洞窟の奥から、かすかな息づかいのような音が響いた。湿った闇そのものが呼吸しているようで、二人は同時に顔を上げた。 ――ふう、ふう……。 低く重なる音が、岩壁に反響して胸の奥を震わせる。「……聞こえますか」「はい」 吉川の声は押し殺されていた。 梓は灯りを固く握りしめ、首を縦に振る。甘ったるい匂いが急に濃くなり、喉の奥に粘りつく。 耳を澄ませると、息づかいの合間に囁きが混じっている。 意味を結ばない声が重なり合い、まるで複数の人間が同時に呟いているようだった。 梓は母の日記の最後の一文を思い出した。 ――「もう二度と戻らない」 背筋に冷たいものが走り、視界が滲む。「先生……ここから先は……」 吉川は懐中電灯を奥に向けたが、光は闇に呑まれて何も映さない。彼の理性は告げていた。ここは禁域だ、立ち入ってはならない。だが同時に、医師としての衝動が彼を迷わせた。「確かに……ここは危険な雰囲気があります。しかし、真実はこの先にある」 梓は頭を振った。「だめです……誰かが、見ている……」 その瞬間、背後から空気が揺れた。 暗闇の奥に、確かに何かの視線を感じる。 ――覗かれている。 囁き声が幾重にも重なり、洞窟の空気そのものがざわめいた。 二人は息を呑み、互いの存在を確かめるように目を合わせた。 囁きが途切れた刹那、岩壁のあちらこちらがじわりと濡れ、黒い液がにじみ出した。それは洞窟の奥全てを覆い尽くし、祠を中心に岩肌全てを覆い尽くす。 滴かと思ったそれは膨らみ、肉のように脈動し始める。 いや、肉のように、ではない。 それは肉だった。黒い液体は見る見るうちに赤黒く色を変え、それははっきりと肉塊に姿を変える。 ――ぐじゅ、ぐじゅ……。 甘ったるい匂いが一層強くなり、吐き気を誘う。 梓は思わず後ずさり、吉川が腕を引いて支えた。「下がってください!」 声を上げた瞬間、にじんだ塊から眼のようなものが開いた。 白濁した膜に包まれた無数の瞳。次々と瞬きを繰り返しながら、二人を見据える。 同時に裂け目が生まれ、口腔のような穴が開いた。 ぬめる舌を思わせる触手が這い出し、闇の中で蠢く。「……これが……にくゑ……」 吉川は震える声で言い、一歩後ずさる。 だが触手の一本が閃くように伸び、梓の腕を掴んだ
懐中電灯の光が闇を裂き、狭い山道を細く照らしていた。夜気は重く、虫の声すら遠い。 梓は隣を歩く吉川の様子に目をやった。 吉川は時折歩みを緩め、火傷を負った腕を押さえている。包帯の隙間から滲んだ布が汗に濡れ、光を受けて暗く沈んで見えた。「先生……痛むんですか?」「大丈夫です。大したことはありません」 吉川はそう言っているが、分厚く巻かれた包帯がいかにも痛々しい。梓が立ち止まり、光を彼の腕に向ける。吉川は小さく首を振った。「でも――巻き直した方が」「いえ、湿潤療法なので、このままで大丈夫です」 梓は布を取り出そうとしたが、吉川がやんわりと制した。「無理をするのは君の方でしょう。顔色が優れません」 梓は言葉を詰まらせた。 脳裏に浮かぶのは、母の日記の最後の一文。 ――『二度と戻らない』。「……母は、どうしてあんなことを書いたんでしょう」「強い言葉ですね。固い決意を感じます。きっと本当にこの村には戻らない、戻ることが出来ない理由があったんでしょう」 静かな声に、梓はかすかに肩を落とした。 彼の言葉は慰めではない。けれど確かに、支えになる理屈だった。「先生は……怖くないんですか」「怖いですよ。ですが、恐怖を記録に残せば、それは無意味なものではなくなります。――君も忘れなければいい」 梓は小さく頷き、懐中電灯を持ち直した。 その時、道が二つに分かれた。 左は岩肌の裂け目へ続き、低い水音が響いている。洞窟だ。 右は藪を抜けた先に、ぽっかりと広がる窪地。そこに石組みの井戸が見えた。木の蓋は錆びた鎖で留められ、隙間からは冷気とともに鉄臭い匂いが漂ってくる。「……井戸?」 吉川は灯りを向け、眉を寄せた。「古い造りですね。記録に残しておきたいが――」 梓は思わず首を振った。背筋をなぞる冷気に、ここではないと直感する。「先生……あっちは、だめです。清音に案内してもらった祠は洞窟の中にありました」 言い切る声は震えていたが、必死だった。 吉川は短く考え、やがて頷いた。「分かりました。なら、まずは祠を確かめましょう」 二人は井戸から視線を外し、岩肌の裂け目へと歩みを進める。 背後で、井戸の鎖が風に揺れて鳴った。低い水音が重なり、闇はさらに深まっていく。◆ 洞窟の奥は湿り気が濃く、足音に重なるように水滴の音が響いていた。灯り
川沿いの小道に差しかかったときだった。 闇の向こうに、小さな灯りが揺れている。 懐中電灯の光が、こちらに向かってくる。 反射的に息を潜める。 村人か? それとも――。「……吉川先生?」 呼びかける声。 振り向いた光の中に浮かび上がったのは、少女の影だった。「矢野さん……?」 灯りに照らされたのは梓だった。 肩に鞄を下げ、真剣な眼差しでこちらを見つめている。 その手には古びた文庫本と、手帳らしきものを握りしめていた。 驚きが胸を突く。 こんな時間に、なぜ。「どうして、こんなところに?」 「先生こそ?」 梓が不審げな目で吉川を見つめた。 夜の川風が、二人の間をすり抜けていった。 吉川は光を少し下げ、警戒を隠さず口を開いた。「矢野さん……どうしてこんな時間に外へ? 夜道は危ない、それにこの先には……」 「先生こそ! こんな時間に……」 梓の声には疑念が混じっていた。互いに探り合うように視線を交わす。沈黙が流れる。疑念と不安が、灯りの狭い円の中で交錯する。「……先生は何かを探してるんですか?」 「君は一体何を――」 同時に問い返し、気まずい沈黙が重なった。 時間――そう、もし時間が関係しているのならば、彼女はこの村に来たという意味では佐藤家の人々に次いで短い時間だ。 もしかしたら、彼女なら。 吉川は探るように梓に問いかけた。「……林田美穂さん、森川健太くん」 「――ッ!」 梓の反応は劇的だった。 両手を胸の前で組み、震えながら大きく頷く。「矢野さんはクラスメイトでしたね。一緒に森川君の検査に付き合ったこともありましたよね?」 「はいっ! 先生っ! はい、クラスメイトです。良くしてくれたんですっ! でも、でも皆……誰も……」 梓の全身を鎧っていた緊張が溶けてゆく。 大きく息を吐いた梓は、言葉を続けた。「それじゃ、先生も――二人のことを?」 「ええ、覚えています。思い出せたのは、多分偶然ですが」 彼は腕に巻いた包帯を握りしめ、低く答える。「忘れていました。しかしカルテに名が残っていた。確かに、昨日まで診ていた子供たち」 梓の目が潤む。「……やっぱりっ! みんな最初からいなかったって言うのに……」 吉川は深く頷いた。「記憶は奪
生ぬるい夏の夜風が、吉川の頬をなでる。 ――ああ、あの時もこんな風が吹いていた、と高校時代の夏を思い出しながら道を進んでゆく。 あの時は罪のない冒険だった。 しかし、今は違う。人の命が既に失われている。この村に秘密があるというなら、私はそれを解き明かし、これ以上の惨劇を防がなくてはならない。 静まりかえった夜の道を歩く。 村の夜は早く、既にあたりを歩いている人間は誰も居ない。 だが、念には念をいれ、更に夜が深くなる時間を吉川は待った。 静まりかえった夜には、ただ夏虫の鳴き声が響くばかり。 欠けた月に照らされた、未舗装の道を吉川は黙って進んでいった。 村役場は診療所からしばらく歩いた先にある、石造りの二階建てだった。 昼間は村人たちの出入りで賑わう場所も、夜は不気味なほどに静まり返っている。 広場に面した正面玄関は影に沈み、窓からの灯りは一つもない。 ただ風見鶏だけが月明かりを受け、無言のまま夜空に爪を立てていた。 吉川は懐中電灯を点け、深く息を吐いた。 ここから先は、罪だ。 だが――真実を掴まなければ、すべてはまた“なかったこと”にされる。 冷たい金属音が夜に溶けた。 意外なことに鍵はかかっていない。この村では盗人など気にすることはないということか。 確かに、村人全てが顔見知りのこの村だ。役人もまた村の出身者で、よそ者はいない。そういう意味ではここは都会の何倍も治安はいい。 かくいう自分も診療所には鍵などかけていなかったことを思い出し、吉川は苦笑する。 ノブを回し、扉を押し開けると、湿った空気が胸を打った。 中は真っ暗で、長年の埃と紙の匂いが充満している。 懐中電灯の細い光が、帳簿棚の列をひとつずつ照らし出す。 吉川は呼吸を整え、棚に指を滑らせた。 古びた戸籍簿、診療台帳、村の収支記録。 いずれも厚い和紙に墨で記され、端は茶色く脆くなっている。 ページをめくるごとに、そこには不自然な空白があった。 削られた名前。何行にもわたって墨で塗り潰された部分。 その跡はあまりに生々しく、「消された誰か」の存在を雄弁に物語っていた。「……やはり、ここでも……」 思わず囁きが漏れた。 公文書ですら書き換えられている。記憶が書き換えられても記録は残る、とは言い切れないということか。 だが、これでは理由がわからない。
東京から来た少女……か。 診療所の静けさが、ふいに病院の喧噪と蛍光灯の白に塗り替えられる。梓の影を追った意識は、数年前のあの日の病室へと戻っていった。◆ 蛍光灯の白い光が、病院の廊下を均一に照らしていた。昼も夜も変わらない人工の明るさ。消毒薬の匂いと、乾いたゴム手袋の匂いが空気に混じっている。 病室は窓を閉め切っていた。蛍光灯の白に塗りつぶされた空間で、モニターの規則正しい電子音だけが響いている。消毒薬の匂いがしみついた乾いた空気は、吸い込むたびに喉の奥をひりつかせた。 壁際には点滴スタンドと金属のワゴン。カーテンの隙間からは、隣のベッドの気配がわずかに漏れてくる。 その一角に
朝の光が診療所の窓を薄く染める頃、吉川直樹は目を覚ました。 布団から這い出ると、足元で何かがカサリと音を立てた。昨夜読みかけの医学書が床に落ちている。ページが折れ曲がり、栞代わりに挟んだレシートが半分ちぎれていた。 階下へ降りると、診察室の机の上にも書類が散らばったままになっている。昨日の問診票、薬の発注書、それに村役場からの連絡文書。整理するつもりでそのまま眠ってしまったのだった。 洗面所で顔を洗う。鏡に映る自分の髪は案の定、後頭部が跳ねている。櫛で撫でつけても、すぐに元の形に戻った。 洗面を終えて机の書類を揃え始めたところで、戸口が軽く叩かれた。「先生、朝ごはんを少し持ってき
夜の静寂で、梓は目を覚ました。襖の隙間から差しこんだ月明かりが、畳の目を一本ずつ銀色に染めていく。青い夜気がまだ残っていて、寝返りを打つと髪にまで冷たさが染みこんでいるように感じられた。 ここは、母が残していった家。柱の節の黒ずみ、鴨居の塗りの剥げ、障子紙の薄い黄ばみ――どれも初めて見るはずなのに、月光に浮かび上がると、どこか懐かしい。 玄関先に人の気配がした。 布団から起き上がり、窓辺に向かう。薄いカーテンを開けると、夜風が頬をかすめ、遠くで梟がひと声だけ鳴いた。澄んだ夜気に湿った土の匂いが混じり、胸の奥までゆっくりとしみてくる。
授業が終わって、みんなで校舎を出る。「そんじゃーの」「また明日ね!」 口々に声をかけ、皆それぞれの家路についてゆく。 と、清音が梓の隣に並んで歩いてきた。 夕暮れの川沿いの小道を、二人で並んで歩いていく。 初夏の風が頬を撫でて、道端にはタンポポの綿毛が風に舞っている。空気は暖かく、どこからか青草の甘い匂いが漂ってくる。 山の影がだいぶ長く伸びて、風はもう昼間の暖かさを失っている。水の流れる音が耳に心地よく響くのに、その水面を見ると、なぜか一滴も揺れていないように見える。流れている